古代 弥生中期以降に遺跡が急増。 古代 吉備と出雲接触の先端として大和勢力が重視し、屯倉(みやけ)という朝廷領を置き、蘇我氏を派遣しました。 鎌倉時代 頼朝の御家人 久世氏(久世貞平)が赴任。近世に久世という地名を確定しました。梶原景時が美作守護となります。 正応五年(1292) 美作国御家人 久世頼連が幕府の記録に残っています。 戦国期は勢力争いの先端として 鳥取山名 島根尼子 兵庫赤松 広島毛利 県南浦上・宇喜多 の合戦場となります。 笹向城 飯田氏 山中鹿之助の妻の類縁と言われました。 (笹向山 419m 久世盆地を一望する山で現在神社が置かれています) 天文一七年 尼子 高田落城 永禄二年 三浦 奪還 永禄八年 毛利 高田落城 その後 三浦 奪還 天正七年 毛利 美作進行で久世の城は落城。 江戸時代となり、三浦氏が高田城に入ります。 奈良・京都と交流 出雲道 旭川水運 大山道 備中道 備前道 これら交通の合流する地となります。 宿場町久世 出雲松江藩本陣として景山家が栄えます。 鉄 積荷場が置かれ、商業の町として発展。 中世の久世保は宮中の飲食を司る大炊寮の所領。久世はその遺称地。近世初期に属割で台金屋・多田・鍋屋・三坂・山久世村に分割されます。 多田村と台金屋はその後、大庭の郷(大庭郡)へ属し、他は久世となります。 久世氏は代々の有力者 江戸時代 天領となった久世を収めた早川公像 台座の銘は犬養毅の揮毫です。
【現代】 平成の市町村合併により、岡山県真庭郡久世町は真庭市の中心となり、町名はなくなりました。現在は地区名として久世地区が残っており、地元の人は旧久世町を久世と呼んでいます。最寄りの鉄道駅は久世駅、高速インターチェンジは米子道久世インターチェンジとなります。
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